今回の会見については、真相はわからずとか、疑念深まるとかの論評がありますが、そもそも今回小保方女史が会見したのは、STAP細胞の存在如何の会見ではなく、理研が発表した「不正」に対する不服を申し立てしたことについての会見が趣旨じゃなかったのではないでしょうか?
存在証明をするための会見じゃない場所で、質問して、その思いを述べただけで、存在が明らかにならないって騒いでも仕方がないような気がします。一つめの齟齬感ですね。
次に科学倫理を語る識者・専門家という、科学者達の言葉に、品格すら感じられないこと。あるいは嫉妬を含んだ推定有罪論を恥ずかしげもなくかたり、それを袴田事件の反省などどこふく風で報道するメディア。あたかも、科学者=倫理的人格者で、科学者失格=倫理的失格者のごとく物言う人あり。あるいは、小保方女史の会見で好意的な印象を受けた人を、愚民思想丸出しで批難するなど、まさに原子力ムラならぬ、科学ムラの村内の掟を巡る争いを普遍的なもののように世間に向けて垂れ流し続けるのは、科学の名において天に唾しているようなものじゃないんですかね。
そうなっているから、科学者としては優秀でも品格はない、もしくは世間とは適応しない人が多いことが目立ち、ある意味世間的な適応力(注目度)が高い小保方女史の対比されることで、尚更科学ムラのフラストレーションを増幅しているように映ります。
その象徴的存在は、今回の騒動の最高責任者である、野依先生でしょう。ノーベル賞をもらった科学者でも、組織のガバナンスや、危機管理は全くお粗末だということが白日のもとにさらされたわけです。特に汚いのは、科学ムラに君臨しつづけたいがために、研究者個人の倫理観の問題にすり替えて、組織としての責任を過小評価したこと。かくなるうえはノーベル賞にキズがつくような晩節を汚すことなく、早めに退かれるのがよろしいんじゃないですかね。不思議なのは科学者たちから野依先生の責任を問う声が出ているように聴かないことです。性善説だからチェックできないなんて、通用しない論理が通るのは、これも科学ムラの論理なんでしょうか。
まあ、この辺りの道理をよく知る真の科学者はマスコミに煽られたコメントなどだして恥をさらすようなヘマはしてないようですがね。こちらの境氏のように、明快な論点整理をされている方もおられますし。
さて、いよいよ、核心的なSTAP細胞の有無についての議論の違和感。
科学者たちは口々に論文の不備と撤回を求め、科学者失格。全否定を語りながら、存在の証明は明らかにしろと言う主張。理研も不正で処分を明らかに前提としながらノートやレシピ的なものは求めるというのは、おかしいんじゃないですかね。
いずれにしても、小保方女史自身が会見で認めたように、仮に故意でなかったとしても、一発免許取り消しくらいの重過失であることはその通りで、アカデミックな世界での研究者に戻れないことは判っているでしょう。
それならば、どうせ戻れない科学ムラでの名誉のために、誰が手の内を見せますかね。その辺は弁護士だってアドバイスするでしょう。 なんか、どうだ、悔しかったら証明してみろ。でも仲間にはもう入れないよ。ってけしかけて相手が音をあげて差し出すのを待っているようなのはとても、倫理を語る態度ではないですね。
小保方女史自身が証明するための実験をやれば何て気楽なことを言う人がいますが。一体このような騒ぎになった日本の科学ムラで、誰が協力的になるでしょうか。残念ながら日本では無理かもしれません、記者会見なら、自腹で払えるかもしれませんが、実験設備を整えるなんて無理でしょう。だから厄介です。
最も恐れるのは、仮に『職人』小保方女史が行うコツが鍵になっていて、ノートにも記録しない状態だった場合、外国の機関が、彼女をアカデミカルではなく利用して証明すれば、日本の大きな損失になることです。西や北の某国が乗り出したら、日本の科学者は切腹しても間に合わない。
望ましいのは、まさに境氏が云うような、日本の篤志家がスポンサーとなって、中立的立場検証することだが、まあ難しいだろうね。
遅きに失したとはいえ、笹井氏が何を語るのか、理研の論理を繰り返すのかによって、少しまた何かが見えるかもしれない。