痛ましい事件ですね。当事者はもちろん双方の親にとっても、学校関係者にとっても、地域にとっても衝撃だと察します。
犯人の彼も取り返しのつかないバカなことをしてしまいましたね。まだ重大さに気づいていないかもしれませんが。
その上で、「まじめ」「普通の子」「心の闇」、そんなキイワードの羅列ですべて「増加する少年犯罪」の類型にまとめあげようとするマスコミは相変わらずですが、この種の事件が、「現代的問題」によって生じた事件なのか?ということに対しては、相変わらずの報道姿勢とは別に慎重に考えなければならないと思います。
私は典型的な、思春期特有の爆発型の犯罪で、妄想的な無理心中に近いのではと思われます、それでも、彼が自殺しなかったのは、一方的な好意が、最近の「何らかの直接コミュニケーション接触」に伴って怒り・恨みに変化した結果の爆発だったということでしょう。計画性の疑問がある点から、当日の室内で起こったトラブルかもしれません。過去にも類似の事件があったようです。
今日的といえるのは、夕方の30分にも及ぶ犯行時間帯で、悲鳴を聞いても、だれも通報しなかった。(若者の大声・叫び声が日常茶飯事という治安)という団地コミュニティの問題がクローズアップされたことでしょう。いずれにしても、巻き込まれた彼女は本当に気の毒です。第一発見者となった親御さんのショックはいかばかりか。
まだ真相がわからぬままの段階での推察ですが、当初の報道と違って、ようするに親しいほどではない幼馴染であったようですが、彼にとっては数少ない「理解者」と思っていたのでは無いでしょうか、高校に入ってから「変わった」のは、「高校デビュー」じゃ無いですが、彼女が高校になってからの写真が、私の見た限り1局で出ましたが「ギャル」になってましたね。もともと雑誌に載ったりして、目立つ子だったようですが、高校生になってからは、バンドをやったり人気者になって、ギャルになって彼女も変わった(成長した)それが「フツーの女子高生」なのだという巷間蔓延している価値観で語るなら、彼女はそう思っていなかったとしても、生徒の「世間」でのポジションにおいては「彼」は明らかに「高校デビュー」に乗り遅れた「フツーじゃないヤツ」とラベリングされてしまったことは容易に想像できます。「普通」とか「おとなしい」なんてのは、教員とかの「おとな」の価値観でしかないわけですから。「普通の子」という評価は「彼」にとっては「キモイ」「ダサイ」「クライ」という評価にしか過ぎないと思っていたのかもしれません。
犯行そのものとは切り離して、「まじめな子」「普通の子」とは何なのか、生きていくよすがは無いのかという議論がなぜ起きないのでしょうか。「まじめ(そう)な子」はちゃんとしててあたり前、「まじめじゃな(さそう)い子」は「意外にちゃんとしてる」などと投書にまでなる好評価。というようなこと、よくありますよね。「茶髪の若者が席を譲ってくれた」という投書はあっても、「今の若者っぽくないまじめな普通の子が席を譲ってくれました」という投書は無いですよね。こういう価値観に対しての議論をしていかないと、犯罪のたびに繰り返される「まじめな子」「普通の子」論は前に進まないのではないでしょうか。
最新の報道によれば「彼」自身も、父親の死から「変わって」しまったとのこと、残念なのは、彼にとって、父親が死んでも、彼女が離れていったとしても「代償」となる、人間も、書物も、趣味も、ゲームも、周囲に何もなかったんですかね。思いとどまらせることは出来なかったんでしょうか。どんなに「まじめ」だって、人を殺しちゃおしまいです。厳罰で償うほかありませんね。殺した方も気の毒だし、殺された方はもっと気の毒だとしか言えません。