尼崎の列車事故から10日がたちました。つくづく感じたのは、社会学をやってきた人間が言うのもヘンなのですが、マス・メディアって本当に怖いなということを改めて認識しました。今回の事故は自分自身が、多少の鉄道に関する予備知識があったから自信をもっって「これはおかしい」という情報の審査選別がある程度できましたが、そういう知識の無いコトに関する報道に対しては、なかなか初めから疑ってかかるということもフツーに考えるならし難い訳ですからね。
そんななかでも、WebLogを巡覧していきますと、同様な感想を持っている方が少なくないということは、ある意味一筋の光明です。もはや絶対的な権力になった保護産業であるマス・メディアを冷静に批判的に監視し合うことができるWEBの力について、確認できた気がしております。
一方では、いつのまにか事故原因がボウリングやゴルフや飲み会にあったのかと勘違いするような報道ぶりです。いい加減腹立たしくなってくる毎日です。
ボウリング問題ですが、敢えて異見を提起するならば、
同一支社の管内で「結果的に大事故となった」事故発生の後、当該事故とは直接的な関係はない部署の、管理職を含む非番や勤務明けの社員を対象に、事故発生前から予定されていたボウリング大会を予定通り実施し、その終了後に一部は二次会として飲酒を伴う会食を行い、一部はその後も場所を変えて会食を行った。翌日以降に予定されていた大会は中止とした。
報道されている事実を「感情」を排して文章を書くとこうなります。
この行動のどこに問題があるの考えてみますと、「同一支社管内(ムラ)で起こした事故」だから「謹慎しなければならない」という日本の「道義的」な「慣習」に反したことが禁忌に触れたわけですよね。そしてそのことが、「不謹慎」だという一点で批判されているわけですよね。
私もこれは、軽率な行動だとは思いますよ。私自身、常に人の目にさらされる仕事をしていますので、たとえ休日でもそれなりに気をつけているつもりです。それでも、もしペーペーの自分がその立場だったとき、楽観的な情報のみを皆が共有する「空気」のとき、上司に進言できるかどうか。それは普段の職場の人間関係に懸かっていると思います。特に本当に軽微な事故だったときには、嫌味を言われるか最悪「村八分」になるのを覚悟しなければなりません。情報の混乱というのは、どこでも起きるわけです。日本人は情報を使いこなすことが慣れていない民族ですし、共同通信の第一報も結果的には誤報だったわけですからね。
問題は、その時点で最悪のことを想定して「世間」から指弾されないようにするための認識が共有されていなかったこと。したがって「中止しよう」という「空気」が醸成されず、その時点での「空気」が誰も管理職ですら「中止を言い出せなかった」ってことではないでしょうか。「中止しよう」という「空気」の醸成には、職場の関係が良好で、もし予想が外れても「取り越し苦労だったね、キャンセル料はみんなで出し合おう」ということが、納得して出来る環境だったなら、中止の判断もできたでしょう。その点では、JR西の職場環境が(これは日本の企業風土共通のモノかもしれない)そういう環境には無かったという点(程度の)の問題はあるでしょうね。
また、列車に乗り合わせていた運転士2人が「救助を行わなかった」とされて非難されています。この点も難しい問題です。確かに乗務員の心得のなかに、救助を行うことは謳われているかとは思いますが、もし自分がその立場だったらと考えて見ますと、仮に救援も誰も来ていない(無傷の乗客も、地域の住民も)来ていない状態であれば、もちろん懸命に救助に当たるでしょうが、今回の場合は非常に迅速な救助が現に行われている。この線ではなく別の路線での乗務予定がある。そして、上司に判断を仰いで、上司が出勤を命じて命令に服し、予定乗務を全うしたことを、トップが「鉄道マン」失格と言い放ったのは、天に唾する行為ではないですか。私だったら「やってらんない」でしょうね。
しかも、どうもそれについての非難は「支持まち人間」や「人間としての行動ができなかった」などと個人の責任に帰するという論調がほとんどです。それは、あまりにも理不尽ではないでしょうか。車両に乗り合わせていた報道関係者が、まだ救助が続いている中で「乗客」から「レポーター」になったことは不問ですか?まだ、負傷者が声を上げているかもしれない中で、爆音をとどろかした報道のヘリが殺到したのは不問ですか?
このような報道の中で、つい先日のこの記事を思い浮かべました。
『新入社員に会社は絶対?4割以上「指示通り行動」』(読売新聞)データは
http://www.jpc-sed.or.jp/contents/whatsnew-top1.html
「自分の良心に反する手段で、仕事の遂行を指示された場合」
・・・「やりたくないが指示通り行動する」43%
・・・「できる限り避ける」 41%
厳しい雇用環境の中で採用された職員は、ある意味、必要以上に従順にならざるを得ない意識に陥っている(ホンネかどうかは別にして)。これはJR西だけの問題ではないことを、マスメディアの報道は完全に欠落しているのではないでしょうか。
ところが、その後もさらに「不適切な行動」として、広島支社や米子支社管内の話まで、駅が主催する「営業の」ツアーの参加という、おカド違いなモノまでJR西日本が発表している。「同じJR西日本社員」だから「不謹慎」だ、というそれ一点しか理由は無いわけですよね。マスコミに感知される前に発表したのかもしれないけれども、これはあまりにもおかしいのではないですかね。上層部は遺族への謝罪とマスコミに叩かれたことで冷静な判断力を失っているとしか思えない。(あるいはこれをマスメディアがセンセーショナルに報道すれば、「それはおかしい」という指摘がくるのを期待して発表したとすれば、相当の知恵者が居るということですが)、まあそのなかでも、所属の職場から応援が出勤している部署からゴルフへというのは、自粛するのが職場環境を考えても当然であり、不適切だと思いますがね。
JR西は処分、処分といってますが、非番や休暇の社員をどういう理由で処分するんですかね。もしこんなことで処分するならそういう有無を言わせないような労働環境こそ「日勤教育」と同根の問題だと思いますね。
結局、それを決めるのはその場の「空気」で場の「空気」が決断のシーンを支配すること、今まで日本の歴史で何度も登場していますよね。大本営の作戦室もそう、破綻した企業の重役会議室もそう。また、「通常は命令厳守、問題が起きれば個人責任」という「ダブルスタンダード」はB・C級戦犯の悲劇で終わりだったのではないということでしょう。
要するにマス・メディア、とくに「わかりやすく」伝えることを強調して是としているテレビは、「善:悪」の二元図式に収斂させたいのでしょう(善=犠牲者・遺族・被害者 VS 悪=JR西日本)、最初は、事故原因が乗務員(個人)のミスとそれを生んだ企業内環境(組織)と安全設備問題で片付くと思っていたのに、原因調査が「グズグズ」しているから、「不謹慎」をネタに、「不謹慎な会社」が起こした事故という構図に落とし所を持っていったように見えます。
ならば、報じているマス・メディアの方、例えばNHKまで、トップニュースに掲げてますが、あの「不祥事」の最中に社員は休暇をとって旅行も飲み会もゴルフも誰もしてなかったのでしょうか。バスを横転させた近鉄の社員は休暇をとって旅行していなかったのかという話になります。「善悪」に当てはまらないものは一切不問ということでしょうか。
マス・メディアだってそうでしょう、デスクは前例踏襲の「善VS悪」という構図での制作を「期待される空気」のなかで、そういう上司の命令で「逆らわずに」「JR西の社員」と同じように、
『ご家族を事故で失ってどんなお気持ちですか?』
『JR西日本ってこんな不謹慎なことをしていた会社なんですよ、どう思いますか?』
こんな残酷な「不謹慎」なことを、マイクを向けて遺族に聴くことを「業務」として行わなきゃならない。「1分2分の遅れなんていいじゃないですか」という遺族のコメントは流しても、オーバーラン後、事故列車車内で車掌に詰め寄っていた乗客が居たことはほとんど報じない。そういう「空気」がそこにあるのではないでしょうか。
私はなにもJR西が悪くない(これも二元論ですね)、訂正、問題がないといっているのではありません。ただ、「不謹慎」なことがあったとしても、それを責めるのは、マス・メディアがすることでもなく、ましてや遺族を煽るがごとくのキャンペーンを張る権利も資格もないのではないですかということを、申し上げたいだけです。
ただ、このあたりで何となく「空気」が変わりそうな感じもあります。あまりにも過剰な「原因とは無関係の報道」に受け手の疑問が高まってきているような感じも受けていますから。こうなるとまたコロッと変わってしまうのがまたマス・メディアの怖さなんですよね。
各地で今まで問題にされなかったような、2m(ドア1.5枚分)のオーバーランまで報道されるのでは、運転士への無用のプレッシャーにしかならない。逆にオーバーランを避けようとして、非常制動かけるのでは、その衝撃のほうがけが人が出る危険が高くなるにもかかわらず・・・。この事故以降、全国で「置石」をはじめとする列車妨害が起きるとともに、鉄道乗務員や職員(会社問わず)への心無い中傷も相次いでいる、こういう「空気」が起きていることも、忘れずに、冷静な五感を持って、きちんと知っておかなければならないと思います。