昨日、東京上野の国立博物館『仏像 一木(いちぼく)にこめられた祈り』にて、仏像を拝んでまいりました。不信心な私でさえ、荘厳でありながら慈愛をもった表情に、感じるものがありました。そのときふと、いじめで苦しんでいる子にも、この仏様を拝ませてあげたい。そうすれば少しは自殺ということを思いとどまることはできるのではないかと・・・。
今回のいじめ自殺禍。いじめ、超いじめ、そしてまたいじめ。20年前、10年前、そして今。10年前の「いじめ」は完全に「いじめ」にカテゴライズされただけの「犯罪」だった。学校が警察を入れることを辞さない姿勢をみせて、恐喝、暴行などの類は、だいぶ表に出てきたと思います。一方で現在また、犯罪になりにくいコミュニケーション型の陰湿な「いじめ」が表面化してきたということでしょう。
残念ではありますが、日本の社会で「いじめ」が、無くなるということは可能性ゼロといっていいと思います。「いじめ」にあわないようにというエネルギーが社会の抑止力になっていたような社会ですから。「ゼロ」などという数値目標を作ると今回のような統計になるか、ひどければ「無かったことに」しておしまいとなる「日本的な」結末しかない。その前提から始まらないと、いくら議論しても有益にはならないと思います。したがって、「いじめ」を自殺というような方法以外で解決していける手段を考えることが必要なはずです。
私は、「いじめ自殺」というのは、本人が「名誉ある自決」と思い込んで死を選んだように思えてならないのです。特にマスコミ報道に連鎖したようなものは。なぜかといえば、今の学校や生徒の社会に「いじめ」を名誉ある形で解決できる可能性が非常に低いからです(だって「いじめ」ゼロですから)。
被害者が不登校になること、非行に走る(相手に危害を加えることも含めて)ことも、「解決」の一つではあるわけです。しかし、その後のリスクが高かったり、逆にこちらが犯罪になるという「不名誉」さがあります。(現に非行の原因がいじめ被害にあるという事例は数多くあります)そういう思考の袋小路に陥って、プライドを守るため自分にとって「名誉ある自決」に突き進んでしまうんではないか。これは10年前から私が思っていたことです。
そうすると、一番大事なのは、いじめられている被害者側にとって、できるだけ「名誉(尊厳)ある逃げ道」となるリソースを提供できるかということなんだと考えます。じゃあそれは何なんだ。と問われると、これぞ、という答えはない。
ただ、いじめる側のフラストレーションを「学校」という社会で発散させる必要が無い、大都市周辺で自殺に発展するほどのいじめ事件が比較的少なく、地方ほど起きやすいことは、10年前から、指摘されています。多様な「社会」に触れられる機会が多ければ、回避する可能性が高いわけです。
私の個人的な考えとしては、いま自分が認識している、「学校」「家族」という狭い社会が、社会の全てではないということを認識させることが、「自殺」を防ぐことなのではないかということです。本来はそれは家族であり、家庭であってほしいわけですが、それが機能しない場合の「何か」、それはネットでも、地域の施設でも商店でも塾でもどこでもいいですが、「逃げ場」をつくりやすくしてあげること、そして、いじめというのが日常茶飯事で、それから逃れるという行動を自然だと、おとなが認識してあげることではないかと思います。
自殺しようという子たち、もし見てたなら、無駄死にになるから止めなさい。もはや名誉ある自決にはならない。いまは、マスコミが取り上げてくれるかもしれない。しかし、人の噂も75日。もっとでかい事件や芸能人のスキャンダルでもあればあっという間に忘れ去られて、そもそも、「死んじゃったものはしょうがないから、生きてる人を大事にしよう」という世間だからみんな忘れちゃう。悲しむのは残された家族だよ。
一番大事なことは、皆さんが今苦しんでいる学校という社会や、それを気づいてくれない地域という社会は、一生そこにいる場所ではないし、それが人生の全てではないということです。死を恐れぬ勇気があるなら、その社会とは違うところを探すことです。それに心当たりがあるなら、思い切ってその社会に生きてみな。きっと、自分を振り返って、生きていてよかったと思うはずだから。
教育再生は、学校回帰と集団主義論に片寄り過ぎ、格差論のバッシングで多様を認めることができなくなってしまった。
フジテレビよ。オモシロく無ければテレビじゃないんだよね。そんなに教育ってオモシロイですか?
いじめ自殺予告で「宗教者」は何をやってるんですか。走り回ってるのは職業としての教育者とヤンキー先生だけですか。
また、部活動が「いじめ」の温床になっていたという事実に対して、日ごろ「スポーツ教育万能論」を声高に発言しているスポーツ関係者は、なぜ発言しないんでしょうか。